− 平和の祈り・ビルマ戦没者慰霊 −

第49師団(狼兵団)歩兵第168聯隊

兵庫県丹波篠山市(篠山連隊跡地)

歩兵第一六八連隊記念碑

戦友会世話人代表 日置恒夫

「ビルマ派遣 (狼)歩兵第一六八聯隊 戦友会会誌」 出陣四十八年記念  平成四年六月より

一、記念碑建立のいきさつ

思えば私等四十三年前、祖国を離れ遠く中国雲南省やビルマ国の山野を転戦し、悪戦苦闘の連続で連合国の新兵器や大機甲軍団による猛反撃を受け、味方の兵器は破損され、弾薬、食糧の補充もなく転進する兵は傷ついた身を互に助け励まし合いながら戦闘を続けてまいりまし た。このため吉田連隊長を初め多くの戦友の遺骨、遺品も収集出来ず、私達は異国の地で亡き戦友と悲しい別れとなりました。このことが今なお脳裏から忘れられず、終戦後戦友会を結成し各地で慰霊法要を続けてまいりました。

昭和五十二年春、厚生省派遣のビルマ収骨団員が激戦地だったメイクテーラの地より団員の一人、渡辺清氏(四九師団、通信)が戦死者の血潮や骨片の染みこんだビルマの土と、そこに咲くセクパンの花を持ち帰り、九州の戦友会事務局の小柳喜八郎氏(一六八連隊行李班)に届けられ、さらに篠山町の前川健治氏 (一機、准尉)へ送られてきました。

前川氏は「これを祖国へ帰りたかった戦友のみたまである。風化して収骨も出来ない現在、原隊跡に埋め永く供養しよう」と戦友会に呼びかけられました。五十三年五月、篠山で戦友会が開かれ、そのおり歩兵第七〇連隊碑横に「戦友眠る土と草」と標柱に書き、篠山町観音寺住職を招き丁重に戦友と共に戦没者の冥福を祈られたのであります。

それから十年、木製の標柱は風雨に腐触し文字も消えてしまい加えて六十二年春まで残っていた兵舎、連隊本部も次々と取り壊されて行く運命となり、志なかばにして故人となられた前川氏の意志を実現させようと、山本謠(言は日)氏を初め地元、阪神間在住の戦友が実行委員会を作り十数回に及ぶ会合を行い募金活動、碑文の選定、碑原石 の選定、地元関係機関との折衝、除幕式の準備とそれぞれ役割を分担し、漸くにして恒久的な念願の碑を完成させた次第であります。

(実行委員)

山本謠(言は日)。 水沢淳也。 菅長次郎。森誠一。 山原覚太郎。 岡本駒吉。今里淑郎。材木政夫。高見吉春。三井秀夫。後藤廣治。高橋才三。 香川秀夫。 大川正二。奥野昭。赤松信太郎。杉本福次。川口義雄。中野源平。山本勇。

二、記念碑除幕式の御案内

拝啓 新緑の砌、戦友御遺族の皆様には益々御健勝のことと心よりお慶び申し上げます。

扨、先般連隊記念碑建立の件につきまして大変御無理なお願いを申し上げました処、予期以上の貴重な御浄財の寄捨を得まして原隊跡地に立派な記念碑を建立する事が出来ました。これみな偏に戦友、御遺族の御英霊に対する深い御理解と絶大なる御協力、並びに実行委員の方々の献身的な努力のお蔭と存じ心より厚く御礼を申し上 げます。

就きましては碑完成を記念し縁深き丹波篠山で除幕式並びに懇親会を次により開催致したく御案内申し上げます。

敬具

昭和六十三年四月

除幕式 二十九日午前十時より

    場所 旧連隊営門跡(職業安定所前)

    解散 二十九日午前十一時の予定

日時  昭和六十三年五月二十八日 (土) ~二十九日(日)

    集合時間 二十八日午後四時

場所  兵庫県多紀郡篠山町八代(旧陸軍射撃場跡)

    ユニトピアささ山 TEL(〇七九五五)二−五二二二

懇親会 二十八日午後六時より

会費  八、〇〇〇円也 一泊二食付

四、記念碑裏面碑文

歩兵第一六八連隊は昭和十五年八月ここ篠山で生れ、さきの大戦で第四九師団(狼兵団)の一翼として、遠く異国の各地を転戦し栄えある感状に輝きました。しかし悲運にも吉田連隊長はじめ多数の戦友が散華されました。

ここに謹んで戦没者の霊を弔うと共に、世界の恒久平和を祈念し、この碑を建て、永く後世に伝えるものであります。

昭和六十三年五月

戦友一同

遺族一同

毎日新聞記事 昭和六十三年五月二十日

多紀郡篠山町郡家、元篠山連隊営門跡に「歩兵第一六八連隊発祥之地」の記念碑が建てられた。戦没者の霊をともらうとともに世界の恒久平和を祈念して戦友会、遺族会が建立したもので二十九日午前十時から除幕式を行う。

篠山の連隊と呼ばれていた歩第七〇連隊が中国東北部の旧満洲へ出動したあと昭和十五年、通常中部第六八部隊と呼ばれる第一六八連隊が編成された。連隊の主軸は丹波、但馬、姫路、阪神間などの県下出身者。

十九年二月朝鮮へ移動したあと新編成された狼軍団(第四九師団)の一翼として中国雲南省作戦に参加、そして二十年三月、連合軍大機甲部隊の南下を阻止するためビルマのメイクテーラで戦い、吉田四郎連隊長ら約八割の兵士が戦死した。

三千五百三十人の連隊で復員できたのは五百余人と言う悲運の連隊でもあった。

五十三年五月、激戦地メイクテーラの土と草花を同連隊第一機関銃中隊戦友会が中心になり営門跡に埋めるとともに「戦友眠る土と草」の標柱を建てた。再び日本の土をふめなかった多くの戦友の霊を慰め、二度とこのような悲しみのないことを祈願したものだった。しかしその後十年の風雪でこの標柱も傷んできたため、新たに記念碑を建立しようと阪神間の戦友らが実行委員を作り、作業を進めてきた。

建立された碑はみかげ石製で高さ一・三米幅二・一米奥行き一・二米高さ八〇センチの台座の上に置かれている。正面には連隊発祥の地の刻文と裏面には“戦没者霊を弔うとともに、世界の恒久平和を祈念し、この碑を永く後世に伝える”とある。総事業費は四百八十万円。

除幕式には北海道−鹿児島などから約百人が出席。祭主で戦友会世話人代表の日置恒夫さん(三重県)、遺族代表して吉田連隊長の長女、吉田友子さん(東京)が 除幕する。