この塔の発願者である「成福院」前住職、故・上田天瑞(てんずい)大僧正(元高野山大学学長)は、昭和16年、南方仏教研究のためにタイ国に至り、大戦の勃発によって陸軍嘱託としてビルマに進駐。
ビルマ各地に日本語学校を設立し教育に挺身、その後ビルマ僧となって修行されました。 (ビルマでは身をもって悲惨な戦争を体験)
昭和19年、ビルマ仏教協会より贈呈された釈迦仏像と大蔵経を奉持し無事に帰国した大僧正は、この仏像をご本尊としてビルマ戦没英霊を高野山において供養することを発願され、苦心13年の歳月を要して、昭和40年第1期の摩尼宝塔工事を終了、今日の基礎を作ると共に、日々護摩供養を厳修して英霊の菩提を弔いました。
昭和59年、弘法大師御入定1150年御遠忌大法会に当たり、前住職の遺志を継ぎ摩尼宝塔完成を発願した仲下住職様は戦友・遺族・有縁の信者の協力を得て、三層八角の荘厳な宝塔の完成を成就されました。
世界遺産奥の院参道にご英霊を奉祀された納骨塔「パゴダ」が建立されました。(昭和55年)
摩尼宝塔には日本ビルマ親善のため、ウ・ネウイン前大統領より釈迦像を、ビルマ高僧ウ・サンディマウンタ大僧正からは大理石獅子を贈呈されました。
摩尼宝塔(まにほうとう)の摩尼とは宝珠(ほうしゅ)という意味で、 真善美(しんぜんび)の価値を実現する理想菩提心(りそうぼだいしん)の象徴です。 人間の本来具有する菩提心の宝珠を磨き出し、この世に真の価値を創造することが大乗仏教(だいじょうぶっきょう)の教えであり宝珠を拝み成就の徳をいただくのが密教の信仰であるのです。
成福院様HP引用
世界遺産奥の院 ビルマ方面戦没者英霊納骨塔「パゴダ」
毎年7月第3土日 前夜祭とビルマ方面戦没者大法要
毎年盛大に開催(成福院 摩尼宝塔)
宿坊 藤之坊 成福院の縁起
成福院HPより
■成福院
大永3年の大火で類焼にあい、過去の記録は全て焼失して、その詳細は明らかではないが、中興尭栄重源房(192世山主)は美濃の人で、天文8年12月に検校となり再建されました。
徳川時代には、寺格は上位に並び、院領高35石を賜り、その大檀主は対馬領主宗家をはじめ、長門清末城主毛利家、奧州角田城主石川家、出羽亀田城主岩城家、長門豊浦城主毛利家、肥前唐津城主寺沢家、公卿飛鳥井家などと深いつながりがあったと伝えられ、位牌及び石碑を建立し、供着料が寄せられました。
なお、当院が蔵する霊宝及び墓碑の主なものとして本尊大随求明王木像・五大力明王画像・花鳥画・桃牛画・八景画・騎馬画屏風などがあります。
墓碑では、長門豊浦城主毛利家墓碑拾弐基、同清末城主毛利家墓碑七基、肥前唐津城主石川家墓碑六基、出羽亀田城主岩城家墓碑六基、対馬領主宗家墓碑二基、京都飛鳥井家墓碑二基。
■本堂内陣
弘法大師(お大師さま)を宗祖とし 高野山金剛峰寺(こんごうぶじ) を総本山とする高野山真言宗のお寺です
ご本尊は「大随求明王(だいずいぐみょうおう)」の木像で、日本でも大変貴重な仏像で本堂内陣にまつられています。
ご本尊を拝むときは 「オンバラバラ サンバラ サンバラ インジュ ロヤ ビシュダニ ウンウン ロロシャレイソワカ 」 とお唱えします
■宝来
宝来(ほうらい)は高野山に伝わる縁起物で 〆縄の飾りに準じて、寺院・民家で飾られてきたものです。
当院の各お部屋にも飾られており 、宝船以外にその年の干支・宝珠・寿などの絵柄がございます。
慶事
高野山金剛峯寺 最高位の僧侶の就任を祝う「法印転衣式」
摩尼宝塔法主様(成福院住職 仲下瑞法大僧正)が明春高野山金剛峰寺第526世寺務検校執行法印(ジムケンギョウシギョウホウイン)にご就任(昇進)なさいます。
寺務検校法印とは、一般的に法印様と称せられますが、弘法大師・空海様のご名代として向こう一年間、高野山の重要な儀式・行事を執り行う最高位の役職を申します。
2025年2月22日(土) 就任式
2025年3月12日(水)11:00 法印転衣式(ホウインテンネシキ)
転衣式当日は、前立・供揃いでお籠で成福院を出立なされ金剛峰寺へ向かわれます。
金剛峰寺では、法印様の象徴である緋色(ヒイロ=濃い赤色/最高位の色)の衣に着替えられ大広間正面の座に着座されたのち、一年間の法印職の成満を願って、「松三宝(マツサンボウ)」とよばれる儀式が行われ、縁起物の米と昆布を長い箸で受け取ります。
法印在職中の一年間は如何様なことがございましても山を下ることはゆるされません。