個人的考察
−ビルマ戦争の激戦地を訪ね戦史を調べまとめた個人見解資料−
高野山成福院 摩尼宝塔の展示写真より − イラワジ川渡河
大東亜戦争(太平洋戦争)で 19 万人の尊い命が犠牲になったビルマ戦線。(2024 年は戦後79 年/会戦から 83 年)
「ジャワの極楽・ビルマの地獄・生きて帰れぬニューギニア」 と当時例えられたビルマ戦線です。食料や武器弾薬の補給はなく、雨季に変貌する 600mに及ぶ大河のチンドウィン川を渡りきれず、 愛馬や武器の半数を流されたとされ、アメーバー赤痢やマラリアに苦しみながら、幾重にも連なる2000m級のアラカン山脈を、武器や大砲を解体した重装備の中人力で山を越え、インパールやコヒマをめざしたインパール作戦やアキャブ作戦・イラワジメイクテイラー作戦ほかどれも想像を絶する戦いであったと言われます。
なぜ地獄の戦争と言われたのか? 2019 年インパールやメイクテイラー激戦地を訪ね、地形から見えた悲惨さと戦史を調べ直し個人的にまとめた資料です。
ビルマ戦争について共に学び戦没者の方々への理解がより深められれば幸いです。
時代背景
明治〜大正〜昭和 ずっと戦争の時代
日本は当初、日清戦争や日露戦争で勝利を収め大陸への進出を進めていましたが、1931年の満州事変以降、中国への侵攻を深めていき、ついには日中戦争を勃発します。
日中戦争では、戦争が長期化し、原油や鉄鋼の重要資源の輸入も停止されたことから、国も兵士も疲弊しました。
中国との戦争に勝つためには、英・米から中国への食糧・軍需品の補給路「援蒋ルート」の遮断が必要でした。
そのため、日本軍は仏印へ進駐し、東南アジア・太平洋の島々、そしてビルマへも進軍することになりました。
戦争の目的
日本は戦争の目的として「自存自衛」、ついで「大東亜共栄圏」の建設を掲げました。
更に、日中戦争(支那事変)が長期化して日本軍の兵力が疲弊する中重慶に運ばれる「武器弾薬・食料ルート(援蒋ルート)を遮断すること」で長期化する戦争を早く終わらせたい願いがあったと聞き及びます。
作戦の経緯
近日、更新予定